<< スクールカウンセラーに思うこと | トップ | 昼下がり >>
もしも完璧な世の中があったら、スクールカウンセラーは…
もしも「完璧」な世の中があったら、社会に不適応を起こす者など、皆無であろう。「完璧」な世界に不適応を起こすはずがないからである。
仮に不幸にして、先天的に或いは後天的に身体、あるいは精神に、障害を持った者があったとしても、「完璧」な社会が「完璧」に手当てをおこなう筈であり、社会的弱者など存在しないことになる。
つまりは、「完璧」な社会に於いては社会不適応など最初から存在せず、またどうしても支援や援助が必要な者に対しても「完璧」な社会が「完璧」な支援や援助を行うこととなる。

それではなぜ臨床心理士やソーシャルワーカーといった対人援助職が「現実に」必要とされているのか。

一つめの仮説として「完璧」な社会が「完璧」な支援、援助を行うための最前線の出先機関としての機能を持っている、という考えが可能かと考えられる。
しかし、この仮説では社会不適応を起こすものがいない「完璧」な社会とはいえない現実に即したものとは言い難い。

二つ目の仮説として社会不適応を起こしたものや社会的弱者に対して、個別的、現実的且つ具体的援助を行い、実行するものとして対人援助職を位置付けるという考えがある。
こちらのほうが前者に対してより現実的であろう。
しかし、この視点では、対人援助職は「完璧」ではない社会体制(資本主義、社会主義、共産主義に関わらず)のもとで、いわば犠牲となった人々を、その場しのぎの御都合主義でさばいているのではないのかという批判も成り立つ。つまり、社会の犠牲者をついばむ偽善的行為を行う社会的ハイエナ、とでもいうべきか。

再度原点に立ち帰えろう。「完璧」な社会などありはしない。前提が有り得ないdiscussionなど、幻想に過ぎない。

現実の社会に置き換えるなら、仮に社会的不適応を起こしたとしても、また、何らかの社会的支援、援助が必要な状況に陥ったとしても、その状況を脱するための援助を行い、その援助を通じて社会全体を変革していくため存在していると考えられる。
もしも対人援助職の普遍的存在意義を考えるなら、以上の点を考えなくてはならないだろう。
我々は、社会を間接的とはいえ、変えていく力を持っているのだ。「完璧」な社会が有り得ないとしても、より「完璧」に近い社会が実現されるように…
もしかしたら、対人援助職がフルに力を発揮しえたなら、対人援助職の存在意義そのものが消滅するのかもしれない。しかし、それは(現時点では)信仰か形而学的な課題というべき代物とも言える。勿論脱却するべく手段方法は厭わないつもりだが。

スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーがハイエナと批判にさらされないように研鑽は怠ってはならない。
もばいるぶろぐ | 00:23 | comments(0) | trackbacks(1) | - | - |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://blogblog.psycho-therapist.biz/trackback/759981
トラックバック
2008/04/04 6:15 PM
煙草が止められないのと同じではありません(こちらは中毒)。酒はほぼ断っています(こちらも半分中毒でしたが)。 しかし、臨床心理士を辞めることは出来ません。 この4月から現場復帰します。約一年半、ほとんど臨床らしいことが出来なかった(出来ていなかった?)自
LIFE IS NOT ENOUGH. Shit!!!!