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尾崎豊はアイコンでしかないのではないのか
JUGEMテーマ:学問・学校
先日から話題になっている件。
朝日新聞から転載

成人の日に−尾崎豊を知っているか

ああ、またオヤジの「居酒屋若者論」か、などと言わずに、聞いてほしい。

 キミが生まれた20年前、ロック歌手・尾崎豊が死んだ。その時のオヤジより少し下の26歳。雨中の追悼式に、4万人が長い長い列を作ったものだ。

 新聞には「高校を中退し、自由を求めて外に飛び出した彼の反骨精神が、僕を常に奮い立たせていた」と投書が載った。

 彼が「卒業」「15の夜」といった曲で歌ったのは、大人や社会への反発、不信、抵抗。恵まれていないわけじゃないのに、「ここではない、どこか」を探し、ぶつかり、傷つく。

 その心象が、若者の共感を呼んだ。尾崎の歌は高校の教科書にも採用されたほどだ。

 ところが最近は、うんざり顔をされることが多いらしい。

 オヤジと同世代、精神科医の香山リカさんは毎年、大学の授業で尾崎豊を聴かせ、感想を問うてきた。ここ数年「自己中心的なだけじゃないか」「何が不満かわからない」と、批判的な意見が増えているという。

 教室に居並ぶのは、親や世の中に従順な若者たち。キミと同い年なら、石川遼くん?

 でも、就活の道は険しいし、滑り落ちたら、はい上がるのは難しい。時代は、尾崎のころよりずっとずっと生きづらい。

 だけどキミたちは「自分にスキルが欠けるから」と、どこまでも謙虚だ。格差も貧困も「自己責任さ」と、受け入れてしまっているようにみえる。

 尾崎豊はどこへ行ったのか。

 あの時の尾崎と同じ26歳、気鋭の社会学者、古市憲寿さんには「オヤジよ、放っておいて」と言われそうだ。

 近著「絶望の国の幸福な若者たち」では、20代の7割が現在の生活に満足している、との調査結果を紹介している。過去40年で最高だ。

 将来の希望が見えないなか、未来を探すより、親しい仲間と「いま、ここ」の身近な幸せをかみしめる。そんな価値観が広まっているという。

 なるほどね。いくら「若者よもっと怒れ」と言っても、こんな社会にした大人の責任はどうよ、と問い返されると、オヤジとしても、なあ……。

 でも、言わせてもらう。

 私たちは最近の社説でも、世界の政治は若者が動かし始めたと説き、若者よ当事者意識を持てと促した。それだけ社会が危うくなっていると思うからだ。

 だから、くどいけれど、きょうも言う。成人の日ってのは、そんなもんだ。

 ともあれ、おめでとう



「成人式はバカと暇人のもの」 若者に「尾崎豊」を強要するのはやめなさい

今年の成人式は、実に気持ちいい。というのも、この10年くらいずっと続いてきた「成人式で荒れる若者」的な報道を目にしなかったからだ。ネット上で話題になったのは、主に次の二つである。一つは、朝日新聞の社説だ。「成人の日に―尾崎豊を知っているか」。もう一つは、熊本県阿蘇市の佐藤義興市長が成人式でお世辞にも上手だとは言えない歌を披露したことである。

実に牧歌的であると感じた。特に前者については、「若者はかわいそうだ」と感じざるを得なかった。大人もバカで頼りないことを可視化してしまったからだ。


これはいかにも○日の匂いだ。信条左翼で行動右翼、という感じ。
それではそれに批判したアゴラ・常見陽平氏の発言を引用


■新成人も、私も「尾崎豊」を知らない
まず、「尾崎豊を知っているか?」と言われても、新成人は「知りません」と答えざるを得ないだろう。新成人はとっくに平成生まれで90年代前半生まれだ。尾崎豊が亡くなった92年に彼らは生まれたのだから知るわけがない。ただ、名前と代表曲くらいは知っているかもしれない。ミュージシャンのインタビューで彼らが影響を受けたアーチストとして紹介しているのを聞いたり、あるいは宇多田ヒカルやミスチルがカバーするのを聴いたのがキッカケだろう。あるいは、尾崎豊は何年かに一度、再評価されているので、そこで知ったのかもしれない。

ただ、今年の新成人が彼の生き方と歌に全面的に共感するとは思えない。さらに言うならば、尾崎豊が生きていた時代にティーンエージャーだった私だって、別にリアルタイムで尾崎ファンだったわけではなかった。当時の私にとって、尾崎豊の歌詞は響かなかった。もっとうるさい音楽の方が心を揺さぶったのだ。たしかに同級生は尾崎豊を聴いていたが、私やその周りにいるバンド仲間にとっては洋楽のガンズ・アンド・ローゼズの方がよっぽど音がうるさかったし、暴力とセックスの匂いがプンプンしていて刺激的、魅力的だった。

「それは、お前の音楽の趣味だろ」と言われそうだが、まったくもってその通りだ。いや、実はそれだけではない。90年前後の当時だって、音楽の趣味も生き方もとっくに多様化していたのである。ゴールデンタイムで歌番組を放映する時代は、ほぼ終わっていた。厳密にはミュージックステーションなどの番組はあったし、まだCDTVなどのランキングに入る曲も、カラオケで皆が歌う歌も似通ってはいたが、「国民的ヒット」というのがあり得なくなったと言われたのが、この時期である。「ドリカムやB'zがミリオンを連発しているというのに、サビを歌えない人がいる」ということが当時から言われていた。当時の若者は誰もが尾崎豊を聴いて、共感したわけではないのである。バイクを盗んだり、夜の校舎の窓ガラスを割ったわけでもない。

もっと言うならば、尾崎豊は影響力、存在感はあったものの、決してバカ売れしたアーチストではない。前述したドリカムやB’z、ミスチルの方がよっぽど売れている。ちなみに、日本で一番売れた男性ソロアーチストのアルバムは河村隆一の『LOVE』である。実は私はこのアルバムが大好きなのだが、当時も商業的だと揶揄され、ファン以外はナルシストすぎると言われ、今ではBOOK OFFで105円くらいで買えるこのアルバムが、実は尾崎豊のどのアルバムよりも売れたのである。これもまた皮肉なことである。

■いつも若者不在の若者論
ここ数年、メディアは「若者かわいそう論」の大合唱だった。私の専門の新卒採用についてもまさにそうで、メディアは就職難に苦しむ若者の姿を紹介し、読者の共感を得てきた。さらには、世代間格差の話になったりもする。

ただ、この手の議論は若者が不在の議論になりがちである。今回のように、「尾崎豊を知っているか」と言ってみたり、スティーブ・ジョブズが死んだら、"Stay hungry,Stay foolish"という名言をドヤ顔で受け売りしたりする。では、若者が尾崎豊化したら、スティーブ・ジョブズ化したら、全力で叩き潰すのが大人たちである。新卒採用においてもそうで、企業が掲げる求める人物像というのは、「そんな人材いるのか?」というほど神さまスペック化していくし、ないものねだりだ。一方、そんな求める人物像に合わせるように学生は演技し、結果として企業には「マニュアル学生」だと解釈されたりする。そんな不幸な連鎖が続いていて、なかなか悩ましい。

今回の朝日新聞の社説に関しては、「ネタじゃないのか」「実は新成人じゃなくて、大人たちへのメッセージでは?」という解釈もあるようだが、言いっ放しでは意味がない。若者に期待していそうで、この言説自体が実は、昭和的価値観、20世紀的価値観にしがみついた考え方ではないだろうか。つまり、新しい時代をつくるということなんか、何も期待していないのではないだろうか。

実は「こうなれ」と押し付けるよりも、「どうなりたいのか?」と傾聴する姿勢を大切にしたい。もっとも、若者にとってなりたいロールモデルがなかなかないのは、今も昔も課題なのだけれど。

一つだけ言うならば、今回の朝日新聞の社説や、歌を歌って失笑を買った阿蘇市長を見て分かるとおり、別に大人たちが素晴らしい能力や考えの持ち主であるわけではないということだ。皮肉なことに、彼らは身を持って、「大人も色々あるんだよ」と教えてくれたのかもしれない。自分の眼で見て、自分の頭で考えて、自分の言葉で話すことが大事なのだ。大人にしがみついてはいけない。新成人よ、「自分はどう思うのか?」と考えるクセをつけ、自分で自分を支え、試行錯誤をサボらず、紆余曲折を怖がらないで欲しい。くれぐれも言うが、バイクは盗まなくていい。窓ガラスも壊さなくていいのだ。

これはこれで、何となく的を外しているような気もする。

とおもっていたら、こんな記事も見つけた。
ニューズウイーク日本語版・冷泉彰彦氏のコラム

 アメリカには成人式というものがありません。18才で法的に成人する若者に、社会全体で期待をしたり説教をしたりという習慣はないのです。成人式的なメリハリは宗教が担っているという理由もありますが、もしかしたら世代ごとに世界観の論争をしたり、反抗と抑圧の抗争をしたりというカルチャーが弱いからかもしれません。そもそも核家族イデオロギーが機能する中で親子が比較的仲が良いということもあると思います。それがアメリカの強さと弱さを輪郭づけています。

 そんなアメリカとの比較で言えば、日本から聞こえてきた成人式の日の「今の若者に尾崎豊のような反抗を期待」するという朝日新聞の社説と、その社説を批判した常見陽平氏の『「成人式はバカと暇人のもの」若者に「尾崎豊」を強制するのはやめなさい』というアゴラの記事を巡る論争は大変に興味深く思えました。

 尾崎豊と言えば、校内暴力の時代の「反抗カルチャー」の象徴とされています。常見氏は別の場所で尾崎のラブソングには一定の評価を与えていますが、それはそれとして尾崎の多くの歌詞が80年代後半から90年代にかけての「若者の反抗」というカルチャーを代表しているのは事実でしょう。

 日本が最も豊かであったあの時代に、どうして校内暴力の反抗が起きたのでしょうか? そこには2つの理由があると思います。1つは、日本が高度成長から二度の石油ショックを乗り越え、自動車と電気製品を中心に輸出型ビジネスを大成功させる中、ようやく「豊かな社会」を実現したという時代背景です。物質の豊かさは精神の豊かさ、つまりより高度な抽象概念への関心や、より高度な付加価値創造への欲求へと若者を駆り立てたのです。

 ところがそこに、教育カリキュラムとのミスマッチが起こりました。教育カリキュラムはせいぜいが「前例を疑わない官僚」や「主任教授の忠実な弟子である研究者」「代々受け継がれてきた職人的な創造者」などをエリートとして養成しつつ、多くの中間層に関しては定型的な労働における効率を追求する人材育成のプログラムしかなかったのです。

 つまり、若者の中には無自覚ではあっても「その先の社会へ」と進むモチベーションが高まっていたのに、教育がそれに応えなかったのです。やがて、ずいぶん後になってから「ゆとりと総合的学習」などという半端なコンセプトが提出されましたが、基礎訓練を強化した上で抽象的な概念のハンドリングへ進むのではなく、基礎訓練の劣化を伴いつつ指導者の育成もせずに「総合」などというのでは破綻するのは当たり前でした。

 ちなみに、この「ゆとり」に関して言えば、前思春期には基礎を叩きこんで、思春期から先に抽象概念にチャレンジさせるという定石も外していました。実際はその反対だったのです。前思春期に「おままごと」のような「総合」をやらせておいて、思春期以降は「受験勉強」に戻って定型的な訓練と規範への盲従を強いるという、まるで人格を成長「させない」ようなプログラムになっていた点も厳しく批判されなくてはなりません。

 もう1つ、校内暴力の背景にあったのは教員の質の低下でした。80年代の世相の中では、「利害相反の中でコミュニケーションの仲介をする」という当たり前の社会的行動を「忌避する」タイプが多く教員になっていったように思います。バブルの拡大を前にして「ビジネス志向」の若者が企業社会に飛び込む中で、「そうではない」タイプが教壇を目指したのです。

 拝金主義を嫌って本質的な人格育成を担う志があるのならまだ良かったのですが、利害相反の調整行動を「イヤ」だ「辛い」というタイプを教員にしたのは間違いでした。世代間のカルチャーがどんどん変化する中で、教員に求められるのも「高度な利害相反の調整能力」であったのです。そのスキルのない教員には、生徒の「変化への衝動」や「権威への疑い」に対処できるはずはありません。

 そこで当然の帰結として管理教育が導入されました。管理教育というのは、強者ゆえに管理に走るのではなく、無能な弱者ゆえに細かな規則などによる管理でしか学級運営(クラス・マネジメント)ができない、教育のレベル低下であったのです。原理原則を軸として柔軟な価値判断や現実的な紛争調整をすることができない無能な教員が、生徒の「変化や破壊の衝動」を圧殺するという悲劇が繰り返されたのでした。

 尾崎は少なくともこの点は見抜いていました。その意味で歴史的な意味合いはあると思います。ですが、20年を経た現在、この点で尾崎を最評価しても何もならないと思います。

 1990年の時点では「高付加価値」や「抽象概念」が扱えない大人には、反省はまるでありませんでした。自分たちが日本社会を「先へ進める」ことを妨害しているのに気づかず、過去の成功体験や代々受け継いできた訓練ノウハウを疑うこともしない彼らに対して、当時の若者が激しい異議申し立てをしたのは当然だと思います。

 ですが、現在は時代状況は違います。今、日本社会が直面しているのは一種の撤退戦です。国際競争の中で負けた部分を放棄しながら、何とか生き残るために必死に戦うというのが、現在の「大人」の姿ではないでしょうか? そこには豊かさの中で変化を圧殺し続けた1990年の時点での「大人」のような罪深さはないように思うのです。今、必死で生きている日本の「大人」に対して、日本の若者に「反抗せよ」というのは正義ではないと思うのです。

 勿論、生きるために必死な人間が「下の世代にフレンドリー」だという保証はありませんし、下の世代からしても「現実の中で必死な姿勢の全てが尊敬に値する」わけではないと思います。必死である大人は、時として若者の利害も踏みにじろうとするでしょうし、撤退戦に必死な姿をマネしているだけでは生き残ることも難しいからです。

 若者は若者で、困難に満たされた社会、危険と隣り合わせの現実社会の中で、成熟した防御の感覚を備えているのだと思います。現状に満足かと問われれば、とりあえず「イエス」と答えておくその姿勢の防御的な成熟には、「その先へ」と進んでゆく可能性も感じられるのです。そうした若者には「戦略なき反抗」などという破滅志向はないのであり、それはそれで正しいのだと思います。尾崎の歴史的意義はあるにしても、再評価は不要というのはそういうことです。

3つのコラムを読みながら思ったこと…

長くなったなあ…・
 いや、どちらにしても、結局は問題の本質を見逃しては居ないか、ということ。

いやはや、ほんとうに馬鹿馬鹿しい。

思春期のエネルギーとはなんぞや??
思春期とは、一概にライフサイクルの一時期として特定させるほど、単純な時期ではない。
個人差があり、そして、多難であり、そして混乱する時期だ。

○日新聞の社説にたいしてのツッコミを入れると…
尾崎豊は確かに、思春期的なエネルギーを象徴するような“アイコン”にはなり得たと思う。
しかし、それが思春期のすべてではないはずだ。
反抗的な態度のみが思春期の象徴とするなら、思春期なぞ封印されてしかるべきだろう。
従順さも、思春期のうちに入る。
何もかも、思春期のうちに内包される、思春期なりの混沌がある。
第一、高校を中退したことで「自由を手に入れた」とは、尾崎豊は一つも言っていないのではないのか?
この点に、一番の疑念を感じるわけで。


常見陽平氏の意見にツッコミを入れると…
成人式で荒れる若者」的な報道を目にしなかった、とするが、実際には荒れた成人式の報道はあったわけで、ただクローズアップされて居なかっただけだろう。
ついでに言えば、売れたかどうかであり、もはや荒れない成人式など「売れない」時代になったと言うだけでは無かろうか??
この言説自体が実は、昭和的価値観、20世紀的価値観にしがみついた考え方ではないだろうか、とはいいつつも、結局はご自身が20世紀的価値観でしかものを見ていないのではないかと疑ってしまう。「どうなりたいのか?」と傾聴する姿勢を、とはおっしゃるものの、結局尾崎豊やS・ジョブズや…に若者がなってしまえば、全力でたたきつぶすのが大人、と述べている。
くどいようだが、これでは、20世紀末の、まるでなんちゃって「ゆとり」のような言説としか思えない。


冷泉氏の批評もなんだかやっぱり…という印象が否めない。
プリンストン発と銘打っているだけのことはあって、客観的で分析的なのは評価しよう。
しかし、尾崎豊を「再評価」するという発想自体が、終わっているのではないか?
時代の潮流を見抜いた尾崎を今の日本の視点から、あるいは環境から「再評価」するのは、後出しじゃんけんであり、そもそもの議論の本質が抜け落ちているかのように思うのであります。
第一、それじゃあ、なんでアメリカでジェームス・ディーンが登場したのか、現在の視点から彼を評価するべきか否か、議論したところで始まらないでしょう。
しかも、その上で、今を生きる大人が若者にフレンドリーではないのであれば、ますます「無共感」の塊のごとく、いきていくのではないでしょうかね?
1990年の時点での日本を批評されていますが、バブルがはじけだしたそのときですら、預金の金利は税引き後でも1%をはるかに超えていたわけで…。そのことを考えると、撤退戦にすら既に負けているといっても過言ではないのではないでしょうか?
(大学入学がちょうどその時期だったが、初めてやったアルバイトの時給が今とほとんど変わらず、そのくせ、初めてやったバイト代を金銭信託なるものに投資した時の予想利回りは1%代後半でした)


若者のエネルギーに過度の「期待」を寄せすぎ、以前の「成功したかもしれない体験」に浸ろうとする、実に後ろ向きな思考が、根底に共通して流れているように感じられたのです。その上で、「怒れ」だの「反抗」だの「再評価」だの…うんざりしてくるのではないのでしょうかね??

かなり悲観的な見方をしますが、○日新聞的な、「若者よ、立ち上がれ」的発想では、結局若者は、「俺たちに責任を持ってくんじゃねえ」と内心思いつつも、常見氏のように「売れる自分を作ろう」と感じ、冷泉氏の指摘するような「防御的成熟」という、極めて稚拙でかつ高度な生き残り策で、実際には何もできないでいるのが実態ではないだろうか、と思うのです。

心理学的に言えば「受動的攻撃」とでもいえるでしょう。
とりあえず「イエス」と答える。だけど、本当は満足していない。だけどそれは口に出すことはなく、かといって従順なだけではない。むしろ、否定的な行動をとり、見えていないところでは戦略無き反抗というような姿をとる。

こんな日本に誰がした、というのが○日新聞の社説の締めだったが、これはいつでも言われたことではないのか。
零戦のエースパイロットだった坂井三郎氏は、晩年、『朝まで生テレビ』に出演し、その場で現在の若者への苦言を期待された質問には「自分の時代にも若いやつは駄目だと言われ続けた」とかわしたという。同時に現代人の、事態に対し失敗を恐れ無難にやり過ごして済ませようとする風潮には苦言を呈したともいわれる。

必要なのは怒りではないはずだ。叩きつぶすことでもなく、防御の感覚でもないのではないのか。
ただ生き残るための必死さではないのか?
成功を目指す姿を、見守ることではないのか?

多少ダーティーな部分があったが、ホリエモンは叩きつぶされた。
ハゲ孫はまるでハゲタカのように、日本を食いつぶすことで生き残ろうとしている。
楽な天国の三木Tは、何となく青年実業家の姿から、おじさんの姿へ移り変わろうとしている。

夢が見えない。
だからこそ、アンジェラ・アキが流行るのかもしれない。
しかし、苦難を否定し続けていては、あるいは辛酸を甘んじて受ける姿からは、何も希望は生まれない。ヒトは大切にされたい。大好きに思ってもらいたい。そんな生き物だ。痛苦に満ちた世界に本当にYESというのか。むしろ、YESと笑顔でいいながら、傷つきを見せないでいることに必死なのが現状の姿ではないのか。
夢を見たい。

夢を見よう……
へなちょこ教育論 | 23:13 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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